4年前のある日
突然アトピーを発症したとき
僕は、アトピーになったことを
隠さないでいようと決めた。
SNSで自分を出して発信している以上
そんな大変な状態だってことを言いたくない
という思いも頭をよぎった。
でも、「その時の自分」を
隠したり偽ったりするのは
長い時間軸では
自分を苦しめていくだけだと思ったから。
活性化したアトピーがどんなにしんどいかは
これまで何度も書いてきたけど
本当にひどいときは
顔も含めた全身がボロボロで
街ですれ違った人や
コンビニのレジの人なんかが
僕の顔を見て
一瞬ビクッとすることが何度もあったぐらい
それはもう、
見た目にもひどい状態で
そんなことが続くと
どんどん自分に自信がなくなっていくし
そんな自分を隠したくなるのは
当たり前のことだとは思う。
だけど、そんな自分を「隠すこと」だけは
僕はしたくなかった。
どんな状態でも
それが、そのときの自分なんだから。
もちろん、
なんでもそのまま出せばいい、見せればいい
ってことじゃないと思う。
聞かれない限り、
その症状による具体的な部分は
あまり話さないようにしてきたし
ボロボロになった患部の写真は
ネットにアップしたりしないようにしてきた。
自然な対処でできる範囲で
人と会うときには
見た目や身だしなみを整えるようにもした。
望んでもいないものを
見せられたり、聞かされたりして
不必要に不快な思いを
させたくはなかったから。
そういう「言わなくていいこと」
はあるけれど
それと、「隠すこと」は
まったく違うことなんだと思うんだ。
その違いは、
相手のことを考えているか
自分の都合を考えているか
なのだと思う。
あのとき、僕の中にあった
アトピーになったことを隠したい気持ちは
見ている人からマイナスに思われたり
そのことで、仕事にも支障が出たりするんじゃないか
という、
「自分にとって都合が悪い」から
生じた気持ちにすぎなくて。
でもそれって、
アトピーが発症したという「出来事」を
「悪いこと」としか捉えてない証で
そしてそんな
「悪いこと」が起きた自分自身を「隠す」ということは
「素顔の自分」が好きじゃない
というサインを送り続ける行為に思えたんだよね。
いまの自分に起きている事実を
実際にはあるものを
まるで無いかのように「隠すこと」は
例え、
それがどんなに辛くても
どんな結果につながったとしても
自分を貶め、追い詰めていく
闇につながる道のように思えたんだ。
これまで、いろんな人を見てきた。
ネットやSNSが広く一般化して
誰もが自分を発信している現代で
幸せな自分、華やかな自分
そういうものばかりをアップして
称賛と賛同の声を集めることばかり
どんどん上手になって
そうしていつの間にか
そんな輝かしい姿「しか」出せなくなっていって
人が羨むほどの
ファンやフォロワーがいながら
「本当の自分は、誰にも好かれないんじゃないか」
そんな不安を抱えているインフルエンサーを
何人も見てきた。
そのことで得た成功が
いかに大きく、きらびやかに見えるものでも
それは、僕が欲しいものじゃなかった。
僕は、僕でありたかった。
何かを手にするために
僕じゃないものになろうとして
違和感と息苦しさを抱えた
不自然な生き方をしたくはないと思った。
「魂を生きよう」「流れに乗ろう」
そう伝えてきた僕が
こうしてアトピーに苦しみ、悩まされているのは
どう思われるだろう
そんな思いも頭をよぎったけど
でも、それでもいい、と思った。
だって、これが「いまの僕」だから。
この時期、5年をかけて
アトピーになり、そこに取り組むことは
星にも現れていたから
必然の出来事だという確信があったし
何より、生きるってそういうもの、だと思ったから。
だからそれから、アトピーになったことや
そこでの素直な思いを
こうして書いてきた。
アトピーになっても変わらず
セミナーで人前に立ち続けたし
仕事でもプライベートでも
直接会う人には、必要に応じて
アトピーについて話してきた。
いま、いかに辛く苦しい時間を過ごしているか
ということや
それは、何かの魔法で
急に治そうとするんじゃなく
5年という長い時間をかけての
根本的な完治に取り組んでいるから、ということ
そうして、少しずつだけれど着実に
完治に向かっている、ということも
この4年間、何かの節目に
こうして書いてきた。
自分のために、完治に向けて取り組み
自分のために、隠さず明らかにしてきた。
そうすると、
僕のその取り組みを見ていて
「すごく励まされた」
という声を
何人もの人からもらうようになった。
その人たちは、
同じようにアトピー経験者だったり
または何か他の心身の課題を抱えていたり
あるいは、健康問題ではなく
他の何かや、あるいは人生そのものに対して
一生懸命取り組んでいる人だったりしたけれど
そういった感謝の声をもらうたびに
僕はとても不思議な気持ちになった。
ある日、身体に起きた不調に
僕は必死に取り組んできた。
それは、誰のためでもない
自分のための取り組みで
そして、それを隠したくないから
という理由で
ただそのまま書いてきた
それだけなのに
その、100%自分のための行為が
どこかの誰かを、知らずに励まし勇気づけ
そしていま、
なぜかこうして感謝されている。
これは僕にとって
まったく想定していないものだったから。
でも、不思議に思うその気持ちと同時に
「そういうものなんだろうな」という
理屈を超えた納得感もあるんだ。
宇宙はひとつ、とか
世界はつながっている、とか言うけれど
こういうことなんだよね。
「誰かのために」を考えよう
そういった言葉は
とても正しく、美しいように聞こえるし
僕らは時々、
人の役に立たなければいけないんじゃないか、と思ったり
役に立ててなさそうな自分を
ダメだと思って卑下したり、悩んだりするけれど
世界は、僕らが思っているより
はるかに深く、大きな部分でつながっているんだよね。
ある日、母親の美味しい料理で
ささやかな喜びと幸せを感じた子供が
次の日に、駅で乗り得かえに迷っている
旅行者に声をかけて力になり
国に帰った旅行者が
その思い出から、旅行者向けの情報サイトを立ち上げ
そのサイトである国の現状を知った人が
差別や貧困問題に取り組むプロジェクトを立ち上げて、、、
ということだって、あるかもしれない。
そんな、
母親の手料理が
どこかの国の差別や貧困問題の解決するような
どこにも発表されず
形にも残らず、誰も気づいていないけれど
現実を超えてつながり合い
相互に影響しあっている
「静かな奇跡」
で、この世界はあふれているのだと思う。
本当に価値のある宝物は
いつも何気ない、身近で人目につかないところに
そっとあるものだから。
だから、あなたはあなたの幸せに
正直になってみたらいい。
あなたが本当に歓ぶこと
あなたが心から幸せだと感じること
そのことに、
いまこの瞬間、取り組んでみたらいい。
世界はつながっている。
いまこの瞬間の、あなたの歓びが
世界のどこかの、会ったこともない誰かが
幸せになることに
つながるかもしれない。
いまこの瞬間の、あなたの自己満足が
世界全体の人々を豊かにするかもしれない。
世界はつながっている。
目に見え、現実で確認できるレベルを
遥かに超えたところで
たしかにつながっているということを
感じてみよう。
そして、
信頼してみよう。
ゆだねてみよう。
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